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ゴッホ展神戸・ゴッホアライブ ゴッホはどんな人生を歩んできたのか?(2)

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神戸でゴッホ展・ゴッホアライブがあるというので行ってきました。

とても素晴らしい作品が多かったので更にゴッホについて調べてみました。

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ゴッホ展神戸・ゴッホアライブ ゴッホの人生は?

ゴッホは一生独身で精神病を患って37年という短い生涯でした。

濃くて太い人生を歩んできたのだと作品をみて改めて感じました。

ちょっとした年表を作り、流れがわかるようにしました。

以下をご覧ください。

ゴッホ年表

1853年3月30日にプロテスタントの牧師の息子としてオランダ南部のズンデルトに生まれ、4歳の時に弟のテオドルス(通称)テオが生まれ、9歳の時に妹のウィレミーン(通称ウィル)が生まれています。

1869年16歳でパリに本店のある美術商、グーピル商会で働き始めます。何度かの転勤を経て22歳まで勤務します。

1876年23歳になり解雇されますが、失恋によって情緒不安定になったことが原因だったようです。そののち、仕事を転々として教師になったり、書店で勤めたり牧師になるために伝道師養成学校に通ったりもしましたが資格を得ることはできませんでした。

1979年26歳で伝道活動に従事しても常軌を逸した伝道活動を理由に活動を止められてしまいます。父親が牧師だからといっても同じようになれるものでもないようです。

(ゴッホは頑張れば頑張るほど空回りして周りからは孤立していくのかもしれません。)

1880年27歳で画家になることを決意します。そして、ブリュッセルの王立美術学校の素描のコースに登録していますが実際に授業に出ていたかどうかはわかりません。

1881年28歳になり農民の生活や労働を描きます。夏からはマウフェに教えを受けどんどん素描の作品を中心に制作していきます。

1885年32歳からは日本の浮世絵にも興味を持ち始めます。

1886年33歳では1か月だけアントウェルペンの王立美術学校で学んだようですがここでも実際に授業に出たかどうかはわかりません。

1888年35歳には「黄色い家」を借りてゴーギャンと共同生活をするも2か月足らずで破局。ゴッホ自身も自分の左耳を傷つけて入院。

その後、入退院を繰り返します。

1890年37歳に銃弾を受けた状態で下宿先に戻り、最期はテオに看取られて亡くなります。翌日には葬儀が行われ、オーヴェールの墓地に埋葬されました。

以上が彼の人生の流れとなります。

ゴッホは一度も結婚もしなかったので子供もいなかったのですが弟テオに男の子ができたときはとても喜んだようでこの出来事を記録するために【花咲くアーモンドの木】を描きました。日本の影響も受けているので桜と思っている日本人も多いようですが実際はアーモンドの木だったようです。ゴッホとテオは二人で400点以上の日本の浮世絵木版画を集めていたのでかなりの影響があったことと思います。

ゴッホは共同体を夢見て黄色い家を借りてたくさんの芸術家と共同生活をしながら切磋琢磨しながら作品作りをしたかったようでした。しかし、実際には多くの芸術家に呼びかけてもみんなに拒否されていたようです。それでもたった一人だけ多額の借金のあるゴーギャンだけが一緒に住むことになりとても喜んでいたようでした。住むようになるまでもとても楽しみにしてせっせとゴーギャンの喜ぶ顔みたさにひまわりを描いて部屋中をひまわりだらけにしたかったようです。すでにゴーギャンはゴッホのひまわりがとても気に入っていたので自分のひまわりと交換したりもしていました。そして何よりもゴーギャンはゴッホのひまわりが気に入って出来栄えを認めていました。しばらくしてゴーギャンとの共同生活が始まり、共に作品作りに励みました。最初の頃は楽しかったと思うのです。ゴーギャンも【ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ】という作品を描いています。ただ、ゴッホは当時は疲れていて張りつめていた頃のようでもあったようですし、この作品の自分の顔はあまり好きではなかったようでした。そのあとの方がゴッホ自身は明るくなったと言っています。でも、そのあとの方がさらに病状が悪化していました。二人はどんなものを食べてどんな話をしながら絵画を描いていたのでしょうか?

二人が共同生活をしていた時に二人がそれぞれに描いた椅子があるのですが同じ椅子とは思えないほどの違いを感じます。【ファン・ゴッホの椅子】と【ゴーガンの椅子】を見比べるとあまりにもこれまでの生活や価値観や環境の違いを感じざるを得ません。そのころからうすうすは口にするまでもなくお互いにもう、これ以上一緒に生活するのは無理なのではと感じていたのではないでしょうか。楽しい共同生活はつかの間だったようです。わずか二か月ほどでゴーギャンにも逃げられてしまいます。どんどん孤独になり孤立していったゴッホの哀しみを感じます。芸術作品にかける彼の情熱があまりにも他の芸術家とかけ離れていたのだと思わざるを得ません。

耳を切る事件の前日にはゴーギャンは激しい口論の後にカミソリで脅されて怖くなって逃げたと言っています。本当に狂気の沙汰です。翌日には警察が来て、ゴッホは自分の左耳を切っていたのです。ゴーギャンも殺されなくて良かったと思っていたのではないでしょうか?命を落としかねない状況だったと思います。その後、ゴーギャンはアルルを発ちパリに向かい、ゴッホはアルルの病院に入院することになりました。そのあとも何度かの手紙のやり取りもあり、全く交流が途絶えることはなかったようでしたが、なんだかゴーギャンも逆にそれでもつきあえれるというのはすごい人だったのではとも思います。私ならもう怖くてとても無理です。

ただ、それだけにものすごいエネルギーでどの作品ひとつをとっても素晴らしい生命にみなぎられた彼の生きざまが表れているように思います。

筆まめでもあったゴッホは弟テオや母や妹との書簡も残されており、当時の心境や環境を知る上でもとても参考になると思います。しかし、本当に彼の心のうちを理解できたのは弟テオだけだったのではないでしょうか。

もちろん、ガシェ医師も色々と治療に奮闘されて下さったとは思うし、ゴッホもガシェ医師が気に入っていたけれども自分の病状が大幅に改善されるとは思ってなかったようです。

ゴッホの孤独が作品をどんどん昇華させていってさらに良い作品がつぎつぎとうまれてきたのかもしれません。

ただ、絵具を食べたり、とても普通の人間であればできないことを平気でやっていたようなので周りの人たちはどんどん離れていってしまったのも無理はないと思います。

生涯においては10代の頃に失恋を経験してそのあとは職を転々とし、やっと画家を目指すも売れたものはほとんどありませんでした。ずっと弟テオの仕送りに頼りつつ、病院では入退院の繰り返し。一般社会とはかなりかけ離れた変わり者だったと思います。社会に適応できず、日々を悶々と暮らしていたのではないでしょうか。晩年になるにつれて精神的な病がどんどん悪化していきます。その悶々とした気持ちをすべて絵画にかけてエネルギーと自分の魂を生涯にわたって描いてきた作品の数々。ほとんどが独学でしかも誰も真似できない絵画の作品。天才とバカは紙一重とはいいます。もちろんバカではないにしても天才すぎてあまりにも常軌を逸しているのでした。

もしも、ゴッホが結婚して子どもができてという生活をしていたらやはり奥さんのご機嫌をとったり、子どもの育児で時間を割かれたり、家族サービスもしないといけなかったでしょう。食事の時間も家族に合わす必要もあるし、生活の事を考えたらいつまでたっても売れない絵画を描いている暇があればアルバイトでもするか、あるいは本業に就いて生活のために働かなかったらいけなかったでしょう。そういったすべての事を捨てて画家になることを決めてからは全生涯を絵画にかけて最後まで全うしたと思うと一つ一つの作品がとても貴重で高価なものに思います。

始めは人物画を目指していたようなのですがお金がなくてモデル代を出せないので静物画や花を描いていたようです。花は入手するのも簡単で花の絵は売れる見込みもあったようです。またゴッホにとっては色彩の研究にもなっていたようです。

なぜひまわりなのか、ひまわりは「僕にはひまわりがあるのだ。」「僕は何よりもまず、ひまわりを選んだのです。」とゴッホ自身がいっています。

同じひまわりでも壺の色や背景の色、ひまわりの本数と少しづつ違いがあるので見るほどにさらにもっと違いを感じながら見るようになるのもゴッホの魅力のひとつかもしれません。

精神を病んでいたこともあってかどの作品を観てもゆがんで見えたり、通常の色彩対比の理論を無視したりしてゴッホにしか描けないものになっているように思います。黄色はふんだんに使っていましたが同じ黄色でも明るい黄色や薄い黄色や緑がかった黄色などのように何色も使い分けています。また、黒は全く使わずに【夜のカフェテラス】を描いているのも彼独特の表現方法なんだろうと思います。

【ローヌ川の星月夜】の星もかつては適当に星を並べているだけと思われていたようですが最近になり、正確に星の位置がきちんと並べられていることもわかっているようです。星を白一色で表さないで黄色を使うところもゴッホらしい表現方法のように思えてなりません。

こんなことを考えながらゴッホの作品を観るとさらにゴッホが愛しくてたまらなくなります。

いつも孤独とむきあいながらもそれと引き換えに多くの人を魅了してやまないゴッホの作品があります。それだからこそどんな時代、どんな人にもゴッホの情熱やエネルギーが伝わるのだと思います。

ゴッホアライブを観てさらにゴッホが好きになる日本人がさらに増えていくことでしょう。

音楽も流れていたのですがアーモンドの木の時には「さくら」がかかっていました。桜じゃなくてアーモンドの木なんですが(笑)

とは言いつつも私もやっぱり桜に見えましたね。

バッハ、サティ、リスト、ヘンデルなどの音楽も絵画に合わせて次々に変わっていくのも醍醐味のひとつとなっていました。

本当に素晴らしい展覧会の見せ方でした。

まとめ

ゴッホの人生は太く短いものでしたがゴッホの絵画に対する情熱はものすごく普通の常識をはるかに逸していました。生きるために絵画を描いて描いてそのために普通の生活をするのはかなり難しかったのではないでしょうか?しかし、絵画に対する情熱は誰にも負けず、一つ一つどの作品を観ても素晴らしく誰も真似できない彼独自の作風があります。もちろん、日本人好みなのはいうまでもありません。

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